戦いのシンバル

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プロフィール~My Life 天気予報~

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できるブロガーはプロフィールがスゴイ。
 
そんな格言がありそうなほど、有名なブロガーさんはプロフィールが充実しています。
 
華々しい経歴の方もいますが、一見普通の人生のようでもプロブロガーさんの手にかかれば面白く書けてしまうのだから興味深いです。
 
僕もプロフィールを書いてみました。
 
「普通の人生」・・それは僕にとってとても羨ましい物でした。
 
いまはおかげさまで幸福な環境にありますが、子どもの頃の思い出は陰惨なものばかりです。
 
特に小学生のころは本当にいい思い出が一つもありません。
 
本当に一つも、です。
 
だから僕みたいな思いを子どもたちに味あわせるのは、本当に嫌なのです。
 
こんなつらい日々を何年も送っても、生きていける人間がいる。
 
そんな思いを抱いていただける方がいればという思いで、このブログを書きました。
 
その当時の思いを天気予報に託してみました。
 
雨が多い人生でしたが、未来はいつも快晴だと信じています。
 
 
目次

 

 幼年時代~人生天気「雨」~

 
みなさんは人生最初の思い出はなんでしょうか?
 
最初の思い出と言えばとても古いものなので、その輪郭もおぼろげなものであることが多いと思います。
 
僕の人生最初の思い出は、夜逃げでした。
 
僕が生まれたとき、家族は祖父母(父方)・両親の4人でした。
 
僕の父は祖父と仲が悪く、始終けんかをしていたようです。
 
その対立がピークに達し、父は家出することを決めてしまいました。
 
父は家族を連れて祖父に知られぬよう夜中に家を出、母の実家のある土地へと向かいました。
 
家を出るとき、僕は当時お気に入りだった風船のおもちゃを思い出して取りに行こうとしました。
 
しかし父にもう行くから駄目だと叱られ、風船のおもちゃを取りに行くことは出来ませんでした。
 
それが僕の人生最初の思い出です。
 
 

 小・中学校~「大雨」~

 

 
僕の人生の最悪の時期は、小学校時代でした。
 
理由はいじめと貧困、そして父の暴力です。
 
 

 いじめ~学校に居場所がない~

 

 
僕には全ての「いじめられっ子」の条件がそろっていました。
 
僕はあまり身なりに気を遣わない子どもでした。
 
顔を洗ったり歯を磨いたり、服の汚れた所を拭いたり。
 
そういったことが全くできない子どもでした。
 
忘れ物や宿題の不提出も多かったです。
 
そもそもなぜ宿題をやらないといけないのか、真剣にわからなかったのです。
 
また体も小さく、列を作るときはいつも先頭でした。
 
運動神経も悪く、ドッジボールではいつも逃げ回ってばかりでした。
 
僕の住んでいた環境も影響しています。
 
僕の家は貧しく、雇用促進住宅という公営の住宅に住んでいました。
 
一方その他周りはというと、すべて新築の一戸建てばかりが立ち並んでいました。
 
一戸建てが帰る家庭は、中流以上の階級です。
 
僕だけが、底辺の階級にいました。
 
いじめの条件はすべてそろっていました。
 
僕に肩が触れた人は、露骨に「うわっ、きたなっ!」と言って肩を拭う仕草をします。
 
グループを作るときも、わざと机が触れないように離されます。
 
理由もなく暴力を受けるときも多く、頭を切ったときもありました(そのときの傷跡はまだ残っています)。
 
上履きや靴が隠されることもしょっちゅうです。
 
ようやく買ってもらえた自転車の鍵を取り上げられ、土に埋められた時もありました。
 
学校の先生も味方はしてくれません。
 
毎日のように忘れ物や宿題を出してこないような子供は、迷惑なだけだったのでしょう。
 
いじめられたことを言っても、その場の注意だけでおしまいです。
 
学校の成績だけはよかったですが、それも周りには面白くなかったでしょう。
 
それを言いがかりにして蹴られたりしました。
 
僕の学区は小学校から全員そのまま中学校に持ち上がる形だったので、この構造は中学を卒業するまで変わりませんでした。
 
中学に入ると優しい友達もできたりしましたが、いじめの構造はそのままです。
 
卓球部に入部しましたが、そこにもいじめる生徒がいて、平然と台を占拠して練習に加えまいとしていました。
 
僕は練習の時間が終わるまで、ぽつんと台の横に立っているしかありませんでした。
 
 

 貧困~格差による差別、父の浪費~

 

 
僕の家は他から見ても相当お金に困っていたと思います。
 
僕は長男ですが、服はだいたいお下がりでした。
 
いとこからもらったものが多かったです。
 
僕が小学校の頃はスーパーファミコンが流行していました。
 
 
みんな学校が終わるのを心待ちにし、放課後になれば誰々の家に集合と約束をして学校を駆け出していきました。
 
でも僕の家にはそれを買う余裕がなかった。
 
僕のうちだけがそのひとつ前のファミリーコンピューターのままでした。
 
貧困の苦しみとは、物やお金がないことそのものではありません。
 
厳然と可視化される格差がそれを生み出すのです。
 
ましてや子供の世界では、その可視化された格差は僕を除け者にする格好の材料となりました。
 
休み時間などに交わされる会話には、当然僕は入れません。
 
中にはわざと聞こえるようにそういう話を僕の近くでする人もいました。
 
僕の父は運送会社で働いていました。
 
中途入社の現業職ということもあり、お給料はあまりよくなかったのかもしれません。
 
母はパートを二つ掛け持ちしていました。
 
僕と弟は学童保育に入れられることもなく、鍵っ子となりました。
 
父も母も遅くまで働いていましたが、うちが裕福になる兆しは一向に見えませんでした。
 
理由は父の浪費癖です。
 
父は車を頻繁に買い替えていました。
 
2年に1回は替えていたように思います。
 
ローンで払っていたようですが、今の車のローンが払い終わらないうちに新車を買っていたときもありました。
 
他にもこまごまとした余計なものを買っては母と喧嘩になっていました。
 
 

 父の暴力~家にも居場所がない~

 

 
父は暴力の激しい人間でした。
 
僕も弟も、そして母も、常に父の暴力におびえながら暮らしていました。
 
父は相手が女子供でも容赦をしません。
 
母がおなかを蹴り上げられ、床にうずくまって嗚咽していた姿は今でも忘れられないです。
 
僕が寝ていたところを突然襟首をつかまれ持ち上げられ、殴られたこともありました。
 
ものすごく長時間の罵倒と暴力を受けたときもあります。
 
5時間ほど直立不動をしていたでしょうか。
 
5時間ぶりに動くことを許されたときは、全身の関節がバキバキと鳴っていました。
 
父の機嫌が悪ければ、何をされても文句が言えない。
 
父が我が家の絶対法規だったのです。
 
中学のいつの頃か、父が家に帰ってこなくなりました。
 
このまま帰ってこなければいいと本気で思いました。
 
今思えばあれは別居状態にあったんだなと思います
 
 

 高校時代 ~「晴れ」~

 

 

 高校時代前半~栄光の時~

 

 
高校は地元から離れたところに進み、いじめとも決別することができました。
 
あの頃が僕の中での革命ともいうべき時期でした。
 
忘れもしない1997年4月、僕は宮城県立宮城野高校に入学しました。
 
宮城野高校はとても風変わりな学校でした。
 
校則なし、制服なし、部活なし、修学旅行なし、学園祭なし・・・・
 
ないものばかりの学校、それが宮城野高校です。
 
入学した日のことはいまでも忘れません。
 
出席番号1番の女の子は、髪を真っ赤に染めて、ピアスを7個もしていました。
 
ちょうど入学の時期に学校の隣にツタヤができ、校庭を斜めに横切って入会の列をなしたのは楽しい思い出です。
 
友達もたくさんできました。
 
進学校でありながらアウトローな空気も濃く、僕自身煙草や酒に手を出し、みんなで近くの公園で遅くまで盛り上がっていました。
 
部活がないため放課後は暇でした。
 
友達と遊んでばかりでは飽きるので、暇な時間を使って勉強していました。
 
そのころは成績もよく、常に上位をキープしていたと思います。
 
もう僕をいじめる人間は一人もいない。
 
やりたいことはなんでもできます。
 
成績も絶好調。
 
順風満帆に見えた高校生活でしたが、それも長くは続きませんでした。
 
 

 高校時代後半~暗雲~

 

 
高校2年生の秋に両親が離婚したのです。
 
父は長いこと家を空けていたので、離婚と言っても家庭環境は変わりませんでした。
 
「離婚?別に俺には関係ないし」
 
そんな風に思っていたはずでした。
 
しかしこの時を境に、僕の人生に暗雲がたれこみ始めました。
 
勉強が手につかなくなったのです。
 
そろそろ受験を意識する時期。地元には東北大学があるので、そこへ向けて猛勉強するべきときでした。
 
しかし僕は糸が切れたかのように、勉強しなくなりました。
 
一時は自分に発破をかけて取り組むのですが、すぐに飽きて投げだしてしまいます。
 
ちょうど時代は携帯電話やPHSがはやり始めたとき。僕は友達とずっと携帯で話していたり公園で遅くまでわいわいしていました。
 
成績はみるみる急降下。赤点までとるようになり、順位も3桁台まで下がっていきました。
 
今思えば両親の離婚により自暴自棄になっていたのかもしれません。
 
社会、家族、自分・・・・それらへの信頼が崩壊していたのでしょう。
 
「まー別に現役で受かんなくても浪人すれば余裕っしょ?」
 
そんなふうに考えていた僕は現役時はおろか、浪人時でも勉強せず第一志望に落ちました。
 
 

 大学時代 ~「曇りのち晴れ」~

 

 

 大学寮~格安家賃、虫や人との同居生活~

 

 
大学は仙台を離れて埼玉の大学に入りました。
 
一人暮らしをする余裕はなく、大学の寮に入りました。
 
三人部屋で光熱費・水道代込みで月8,000円。安い分、環境はなかなかすさまじいものがありました。
 
ゴキブリがうようよいて、寮の会議をする大きな畳敷きの部屋ではゴキブリの足音が響いていました。
 
「カサカサ」などではなく、本当に「ドタドタ!」っという足音がするのです。立派に肥え太ったゴキブリが幅を利かせていました。
 
ルームメートは3年生の二人。とてもいい人たちでした。ただ一人が女子寮の彼女を毎日のように部屋に呼んでくるので、あまりくつろげる時間はありませんでした。
 
でもこの寮があるおかげで僕は親元を離れられたと思います。寮費の安さがなければ僕は仙台を出られなかったでしょう。
 
 
 ゼミ ~序盤からやる気出ないものの、途中から猛チャージ~
 
 
僕の学部は2年生になる前に、入るゼミを決めることになっています。
 
ちょうど時代は2001年。9.11テロが起きたころです。
 
「やっぱ時代はアメリカかな?」
 
そう安易に考えた僕は、アメリカ研究のゼミに進みました。
 
しかしこのゼミは他と比べてとても厳しいところだったらしく、実際僕も2年生の前半は大して講義には出ず寮で寝ていました。
 
ところがあることきっかけに「僕はこのゼミで目立てるかもしれない!」と思い立ち、一生懸命勉強し始めました。本を読みまくり、洋書をアメリカから取り寄せ、東大など他大学の講義も聞きに行きました。
 
実際この姿勢のおかげでゼミの中ではいい位置を取れていたと思います。
 
今の妻とはこのゼミで知り合えました。2年生の頃はゼミに出ずに「このまま留年かなぁ」と思っていた矢先に妻が編入してきたので、あのとき頑張っておいて本当によかったなぁと思います。
 
 

 サークルはESS~やりたい放題。慶應も倒した。~

 

 
サークルはESSに入りました。英語部とも言えますかね。
 
英語を使って他大学とディスカッション、ディベート、スピーチなどをします。
 
この他大学に出かけるというのが僕にとっては楽しくて仕方ありませんでした。
 
特に2年生の夏休みになってからはESS好きに拍車がかかり、休み中に他大学に手紙を書きまくって大会に紹介してもらっていました。なぜか神戸大学にまで手紙を出していました(笑)
 
4年間で出かけた大学の数は延べ35校。こんなに他大学に行った大学生はなかなかいないのではないでしょうか?
 
一番忘れられない思い出と言えば、初めて出たディベート大会です。当時優勝候補筆頭と言われた慶應義塾大学と第2試合で当たってしまったときのことです。
 
当時の僕たち(ディベートは二人制なのです)は準備の余裕がほとんどなく、練習試合すらできない状態でした。大会はぶっつけ本番です。もともと僕たちのESS自体も弱小レベルでした。
 
一方の慶應義塾はと言えば、何度も優勝経験があり応援部隊も含めて20人くらいは来ています。僕のESS全体の2倍はいそうです。
 
慶應義塾VS埼玉・・・誰の目から見ても勝敗は明らかでした。
 
しかし僕たちはこの負け戦をひっくり返しました。全く聞いたことのない論陣を張られパニックに陥る中、必死になって相手の弱点を探し、そこを必死に攻めました。
 
自分たちの論陣を守る余裕などありませんでした。攻めて攻めて攻めまくる。重厚な鉄鋼で覆われた戦車に対して、僕たちには今にも折れそうなボロボロの竹槍を突き刺すしかなかったのです。
 
しかしそんながむしゃらな攻勢が審判に響いたのか、軍配は僕たちに上がりました。
 
勝敗が発表されたとき、僕たちは大喜びに湧いてお互い抱き合いました。僕たちの奮戦は審判の間でも話題になり、「埼玉旋風」と呼ばれました。なんだか今年の「金農旋風」みたいな感じです。
 
試合の後は審判からの講評があります。そのとき言ってもらった言葉は、僕の一番の宝物となりました。
 
「君たちのディベートは、ディベートらしさが全くない。格好悪いところばかりだ。でもあきらめずに必死に攻撃する姿が素晴らしかった」
 
「君にはディベートの才能がある。君はディベートを続けるべきだ」
 
 
 
「才能がある」・・・・今まで言われたこともない言葉でした。
 
学校ではいじめられ、父親からは虐待され、ずっと居場所のなかった僕。高校の時は遊んでばかりでしたが、開放感はあれど充実感はあまりありませんでした。
 
そんな僕が必死にがんばって、つかむことのできた「才能がある」という言葉。
 
僕はもうその時点でディスカッションを担当することになっていたので、ディベートの道に進むことはかないませんでした。しかしこの言葉のおかげで、その後の仕事人生において成績を残すことができたように思います。
 
 

 新卒の会社~「雨」~

 

 
大学卒業間近の頃、母がガンになりました。大学を1年休学して仙台に戻り看病したのですが、手術の甲斐なく再発してしまい、亡くなってしまいました。
 
僕は研究者になりたかったので大学院に進む予定でいたのですが、母が亡くなってはそうは言っていられません。一年遅れで就活を仙台ではじめ、流通大手から内定を得ました。
 
ここがブラック企業でした。
 
入社初日から2週間近く福島のホテルに監禁です。初日から「君たちは何もできない存在だ!」と罵倒され、夜中まで研修という名の罵倒大会が続きました。
 
研修後も課題が出され、おちおち寝てもいられません。グループを作らされ、課題の不提出は連帯責任とされました。
 
丸刈りにしないと怒られるらしい」・・・そんな噂も新入社員間で流れました。実際人事の社員がバリカンを持っており、そのまえに新入社員たちが列を作って坊主にされるのを待っています。
 
「こんなの狂ってる!」そう思った僕は丸刈りの列に並びませんでした。でも別に怒られませんでした。人事もわざとそういう噂を流して「自主的に」丸刈りをさせているのでしょう。今考えても卑劣な手です。
 
その会社には1年半いたのですが、いま思い出してもひどい会社でした。休日出勤サービス残業は当たり前。当時の店長は高校野球の名門校でプレーしていたらしく、サービス残業のことを「今日も特訓だな」などど言っていました。
 
定時の時間になると「よし、チームミーティングだ」などと言って僕らを呼びつけ、店内のお菓子や飲み物を買いに行かせてはどうでもいい話ばかりしていました。基本的に風俗かパチンコの話しかしません。
 
忘年会の席で副店長に殴る蹴るの暴行を受けたときもありました。前触れもなく殴られました。あとで聞いたら日ごろの僕の態度が気に入らなかったとのこと。この件を店長に訴えた所、僕が別の店舗に飛ばされました。
 
頭がおかしくなりかけたころ、ちょうど妻の住む茨城の街で職員の募集が出ていました。締め切り間際だったので僕はすぐに申し込みをし、ボーナスを公務員スクールに投入しました。仕事しながらの受験勉強は大変だったけど、妻のサポートもあり無事合格することができました。辞めた日の清々しさは今でも覚えています。
 
 

 公務員時代 ~「晴れのちくもりのち雨」~

 

 
 市民課からスタート~環境に恵まれる~
 
 
晴れて公務員となった僕は、市民課へと配属されました。住民登録や戸籍管理などをする部署です。
 
ここの部署では先輩や上司に恵まれて良い時間を過ごすことができました。
 
非常にリーダーシップに優れた上司の方がいて、次々に新規事業を打ち出し毎日目の回る忙しさでした。でも嫌ではありませんでした。社会でやっていけるという自信を深められたのがこの時期です。この上司の方の下にいなかったら、いまごろどうなっていたかわかりません。
 
このころに妻と結婚しました。この時期は他の職員の結婚も続き、部署全体がお祝いムードに包まれました。今考えても幸せな時間でした。
 
そのころはスパルタ接遇講師として当時人気になっていた平林都先生がうちの研修に来ていました。僕は接遇が割と好きなので(その後サービス接遇検定準一級を取得しました)この研修は全く苦ではなかったのですが、日ごろ偉そうにしている人が平林先生にビシバシ指導されている姿は見ていて面白いものがありました。平林先生の研修には特段特別なスキルが必要なわけではないのですが、最低限の対応ができていない職員が多かったので先生も指導のし甲斐があったのでしょう。
 
ちなみにこの時期に第一子となる長男も生まれました。
 
 

 収納課へ異動~残業を撲滅。やりすぎて暇になる~

 

 
市民課に4年いた後は収納課へ人事異動となりました。
 
税金の出納管理をしたり還付事務をする部署だったのですが、ここが残業が多い課ワースト3に入っていました。
 
先に市民課から異動していた先輩がいたのですが、その先輩からは「初日から覚悟しといてよ」と釘をさされました(笑)
 
僕は残業が大嫌いな人間でした。今でもそうです。時間を切り売りするような感覚が我慢なりませんでした。定時内の業務を軽んじる風潮も嫌でした。
 
行ってみたらなるほど、みんな忙しそうです。でも本当になんとかならないかな? 僕は一生懸命考えました。
 
4月から5月はとにかく「残業をしない」に関する本を読み漁りました。床屋さんで髪を切ってもらいながら読んでいた時もあります。役所には存在しない「仕事の効率化」を、なんとかこの手で実現したい。残業カットに向けて僕の闘志はメラメラと燃えていました。
 
6月までは悪戦苦闘していたのですが、7月から目に見えて改善の傾向が見えました。「この業務がある日は残業決定」という日があったのですが、僕はわざとその日に課の飲み会をぶつけてもらいました。残業になれば飲み会は流れます。課の飲み会の命運を賭けた背水の陣です。
 
その日の朝から、業務は怖いほど順調に進みました。前もって作業をすべてエクセルでデータベース化して管理していたため、舞い込んでくる業務はすべてこのエクセル上で完結します。4時を過ぎるころにはほとんどの業務が終わってしまいました。
 
全ての業務を終えて、仕事は定時で完了。効率化が残業地獄を打ち滅ぼした瞬間でした。その日のお酒は格別においしかったです(笑)
 
その日を境に、残業することは全くなくなりました。その理由に一つには効率化の他に、お世話になったある先輩がいてくれたからです。
 
その先輩も大変優秀な方でありながら、残業地獄に苦しめられていました。数字合わせのためゴールデンウィークに出勤していたときさえあります。その先輩が僕に目をつけてくださり、「この業務、なんとかならないか?」と仕事の話を持ち掛けてくださいました。
 
その先輩の姿勢は、けっして部下に仕事を押し付けようというのではなく、対等の立場で仕事に立ち向かってくれないかという決意のようなものが感じられました。そのような姿勢を見せられては、僕もやらないわけにはいきません。その仕事について一生懸命取り組みました。
 
先輩は仕事に妥協のない人でした。僕ががんばって作成した書類でも、「まだだ、まだやれるはずだ。もっとできるだろ、やれ」と返されます。信頼関係のない上司と部下だったら軋轢を生みかねない言葉ですが、先輩の僕への信頼が厚いことはよくわかっていたので、「わかりました」と引き受けて再度チャレンジします。
 
そうして作り上げたデータシートは、我ながら完璧なものとなりました。いままで1日かかっていた仕事が、2秒で終わるようになったのです(笑)
 
「ほらな、言っただろ。お前はできるんだよ。俺もうれしいよ」
 
そう言ってくださった先輩への尊敬は、今でも薄れることがありません。いつまでも一緒に仕事していたい。本気でそう思える先輩でした。
 
しかし人事とは無情なものです。その先輩も一年しか一緒に仕事ができず、先輩は他の部署へと異動となっていました。
 
残業地獄だった僕の部署は、いまやベスト3に入るほど残業のない部署へと様変わりしました。かつてこの部署に所属していた他の先輩などは、「え、なんでそんなに早く帰れるの?」と不思議な顔をしていました。
 
しかし、効率化を進めすぎたのが仇となったのか、今度は仕事がなくなりすぎてしまいました。突発的に忙しくなることはあるのですが、基本的にはすぐ終わるような仕事ばかりが残りました。
 
8時半に出勤するのですが、本気を出せば9時で仕事が終わってしまいます。でも定時は5時15分です。
 
そこから3年、時計を眺めて過ごす日々が始まりました。僕は課題を解決するのは得意ですが、自ら仕事を作り出すのは向いていませんでした。この3年間についてはもったいないことをしたなと今でも思います。
 
この無為な時間が、のちのちのうつ病の素地となったかもしれません。
 
ちなみにこの時期に第2子となる長女が誕生しました。
 
 

 農政課 ~そしてうつ病へ~

 

 
収納課に4年在籍した後は、農政課へと異動となりました。農業に関する交付金を担当する仕事に就くことになりました。
 
この仕事を契機に、僕はうつ病になりました。詳しくは別の日記で書こうと思いますが、この交付金の在り方について僕にはフィットしませんでした。人間関係もきつかったです。
 
農政課に配属された年度末に療養休暇を取り、6月に一度復帰した物の、8月にまた仕事に行けなくなってしまい休職となりました。
 
このころは「死にたい」という気持ちに取りつかれていました。正直、今でもこの「死にたい」という気持ちが心をむしばむときがあります。うつ病は心のガン。いつでも再発の恐れがある病気なのです。
 
市役所でこれからやっていくビジョンを見失い、結局農政課2年目の年度末に退職することになりました。
 
 

 現在 ~「雨時々晴れ」~

 

 
市役所退職後は民間の会社に勤めるつもりでしたが、そこも雇用契約を結ぶことなく2週間で辞めてしまいました。
 
「これからどうしようかな~」と悩んでいたころにネットで見つけたのが、いま参加している田舎フリーランス養成講座です。
 
正直、前途洋々・・・などとはとても言えない状況です。気持ちが暗くなる時も多いです。
 
でも、休職していた時のような閉塞感は今はありません。自分の力でやっていこう。今はただそれだけ考えています。
 
 

 まとめ ~終末にかけて快晴の予報~

 

 
ここまでの長文、読んでいただき誠に感謝いたします。子供の頃の悲惨な時代は、正直いまでも思い出したくない時期です。
 
でも僕の人生全体を俯瞰してみると、波はあるものの段々とよくなってきているように思えるのです。スタートが悲惨だった分、今の状態が幸福に思えます。
 
僕の尊敬する人に植松伸夫さんという人がいます。ファイナルファンタジーの音楽を作られた方です。その方の著書に、「人生思うがまま」という本があります。
 
まさに「人生思うがまま」だと僕も思うのです。確かに思うようにならない局面もありますが、思わないことは少なくとも実現しないのです。
 
いまこれを読んでくれている中高生の方もいらっしゃるかもしれません。その中には苦しい状況の方もいらっしゃるでしょう。
 
「もうどうせこれからいいことなんかないだろうな」と思うときもあるのではないでしょうか。僕もそんなようなことをぼんやりと思っていました。今でも時々思います。
 
でも、まだ何も決まってなどいないのです。「明るい未来が待っている!」などとは僕も言えませんが、一方でこれからも悪いことばかりが起こるなどとも決まっていません。
 
何にもまだ決まっていないのなら、楽しい方に考えたほうがいいじゃないでしょうか?確かに苦しい時は苦しい。僕も毎日苦しい時があります。日中に寝込んじゃうことだってあります。大人の中には皆さんと同じように苦しい思いを抱えている人がいます。
 
そんなときは無理せずあきらめること。学校や部活だって行かなくてもいいんです。事実僕も会社を3回も辞めました。でもいまは普通に生きています。
 
あきらめるというと、後ろ向きな印象を受けますか?でもあきらめることで、自分の中の無駄なものをそぎ落とすことができます。そうするととても身軽になれるのです。嘘だと思うならぜひやってみてください。大丈夫、学校や部活に行かないくらいで人生ダメになることなどありはしないのですから。
 
 
 
学校に通わなくても、起業して成功した人がいます。
 
小畑和輝さんと言います。
 
家で30000時間もゲームをしていたそうです。
 
すごいですよね。
 
 
 
長文お付き合いありがとうございました。また折に触れて僕自身のことについて書いていけたらと思います。